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[あらすじで読む『坂の上の雲』 第8回] [日露戦争の物語]

[あらすじで読む『坂の上の雲』 第8回・・・<運命の海(前篇)>]

☆(お詫び・1)
この『わかりやすい戦争』ブログ、たまに投稿の改行が為されません。過去に二度ありました。
特に、前回 『ノモンハン 第32回』の改行不調は読みにくくて申し訳ありません。
投稿し直しても、正常にならないんですよね。

☆(お詫び・2)
す、すいません。
日本海大海戦百一周年の日が迫ってきました。
そう、【五月二十七日】です。
故に、とりあえず、『二○三高地(旅順総攻撃)』『凍った握り飯(奉天大会戦)』を後回しにして、日本海海戦を記させて頂きます! そう、まさに百一年前!

『新版・新しい歴史教科書(扶桑社)』には、この大海戦の経緯が、コラムとなって熱く語られていますよ^^

▼ここ十年、山本権兵衛の念頭をロシア海軍が離れたことはない。
常にそれを仮想敵として日本海軍を作りあげてきた。
彼は1セットの艦隊を揃えたが、その主力艦は英国製の新品揃いで、ロシアの主力艦に比べて性能の点で優れていた。
山本は兵器の性能の信奉者であり、その優劣が戦いの勝敗を決すると言う点で、どの文明国の海軍指導者よりも近代主義者であった。
 しかし、日本軍が1セットの艦隊しか持たないのに対し、ロシア海軍は2セットの艦隊を持っていた。
一つは極東(旅順・ウラジオストック)にあり、一つは本国(バルチック)にある。この二つが合わされば、日本海軍は到底勝ち目がない。
 山本権兵衛総裁による日本海軍の戦略は、ロシアの海軍力が合体せぬまに、まず極東艦隊を沈め、ついで本国(バルチック)艦隊を迎えて、これを沈めるというところにあった。
各個撃破である。
 ロシアの極東艦隊と日本の1セットだけの艦隊とは、ほぼ同兵力である。
山本権兵衛としては、この艦数、総トン数の対比を、日本がやや優勢、というところまでもってゆかねばならなかった。
海上決戦は、性能と数字の戦いである。敵よりも優勢な数量をもってあたれば戦果が大きいだけでなく、味方の損害も少なくて済む。
 その為、日本海軍は海戦ぎりぎりの時期に、更に二隻の準戦艦を買い取った。「日進」と「春日」がそれである。
 東郷平八郎の連合艦隊は、乃木軍の旅順要塞攻略中、ずっと洋上から旅順港を封鎖し、港内のロシア艦隊が外に逃げださぬ様にしてきた。
開戦以来十ヶ月、洋上で全兵力が浮かびっぱなしであった。艦は疲れ、兵の疲労もはなはだしい。
 その間、敵のバルチック艦隊が刻々近づいていることが、東郷以下の焦燥になっていた。敵の大艦隊が来襲するまでに、艦をことごとく佐世保においてドック入りさせる必要があった。
 この為、海軍から岩村・伊集院という二人の参謀を連絡将校として乃木軍司令部に派遣していた。
その二人からの連絡で旗艦「三笠」の首脳部は、陸軍の戦況とその経過を詳しく知ることができた。
「児玉大将が南下し、乃木軍司令部に入った」
「主攻撃を二○三高地に転換」
 と言うことも知った。転換してほどなく二○三高地が陥ち、その山頂に観測所が設けられた。そして、旅順港内のロシア艦隊を次々に撃沈し始めた報告があったとき、
「それは良かった」
 東郷は小さく頷いた。

▼「三笠」以下、東郷の艦隊は、その根拠地であった裏長山列島を離れ、第一艦隊は呉へ、第二艦隊は佐世保に入った。
 東郷と上村第二艦隊司令長官は東京に戻った。新橋停車場を降りると、数万の群衆が押しかけて、彼らを歓迎した。
 両人は、宮内省からさしまわされた馬車に乗って登営したが、幕僚たちはそのまま海軍省へ行った。秋山真之もその一人であった。
 真之は日没後、青山高樹町の新居に戻った。
そこに、去年の七月に娶った妻のすえ子が夕食の支度をして待っていた。
 真之は毎日、好物の炒った空豆をかじり、仰向けに寝転がって天井ばかり眺めて暮らした。真之が眺めている天井は、すえ子にとってはただの天井だが、真之にとっては、そこに正確無比な日本列島があった。
     【バルチック艦隊は、どこをどうくるか・・・?】
 という課題が、日本国そのものの存亡にかかっていた。
日本の太平洋岸をまわって、遥か北方からウラジオストックに入るか、それとも日本海を通過するか、そのことは、バルチック艦隊司令長官であるロジェストウェンスキーと神のみが知っていることであった。
 ただし、バルチック艦隊がやってきてからの作戦は、全て真之の仕事である。
至上命令として要求されていることは「勝つ」という簡単なことではなかった。
敵を一艦残らず沈めるという、世界戦史上かつてない要求が、連合艦隊を拘束しているのである。
三艦四艦が生き残ったりしてウラジオストックへ遁走させれば、それが日本の海上輸送の大脅威になって満州における陸軍の死活問題になる。

▼世界中が、この海戦のなりゆきを見守っていた。
例えば、この五月の十九日付で刊行された英国の雑誌「エンジニアリング」は、来たるべき日露海戦が、如何に注目すべき世界史的事件になるかを論じている。

「来たるべきこの海戦、その影響するところのものは、史上かつてない大きさになるだろう」

▼日本海軍の不安は頂点に達しようとしていた。
 旗艦「三笠」は、鎮海湾の底に錨を下ろし、白っぽい海面に抉ったように濃い暗緑色の影をおとしていた。三笠の吃水線がいつもより沈んでいるのは、石炭を満載して上甲板まで積み上げているためであった。
「敵が太平洋をまわる公算大」
 という秋山真之ら艦隊幕僚の不安が、この石炭満載の景況を生み出したのである。
敵が、その不幸な(東郷艦隊にとって)コースをとれば、大急ぎで日本海を北上して青森県の日本海沖で待ち伏せする為の燃料であった。
 真之の心は、この時期乱れ続け、敵のコースを予測するについて不動の判断というものがなかった。
彼のこのときの神経と頭脳の極度の疲労が、その後の短い余生をずっと支配し続けるのだが、この時期の懊悩ぶりは、後の行動に常軌を失わせるのだった。
 彼は、靴をはいたまま眠った。
 彼の上司である加藤友三郎参謀長が、
「そんなことをしていては体がもたない」
 と、見かねて忠告したが、真之は、その加藤の顔をじっと見つめているだけで、加藤の言葉が耳に入らないようであった。
「いっそ、能登半島の沖で待ってはどうか」
 と言い出す若い参謀もいた。
 能登半島なら、敵が北に回ろうが、南から来ようが、ちょうど真ん中になって両端いずれに駈けてゆこうとも便利である。

▼バルチック艦隊のロジェストウェンスキーが、
「対馬へ」
 という運命的な針路を艦隊に取らしめたのは、五月二十五日午前九時、細雨の中においてであった。
艦隊は五ノットの低速で進み、ときに八ノットになることもあったが、すぐ信号によって五ノットに戻した。
 二十五日午後五時三十分、旗艦「スワロフ」のマストに信号機が上がった。
 明二十六日から、日本の哨戒海域に入るからである。この二十五日夜はずっと五ノットという低速で艦隊は航進した。
この低速は、ロジェストウェンスキーが、彼の好む時間に東郷と遭いたいという時間調整のためのものであった。
もっとも他に機関管理上の理由もある。
一つには戦闘を前にして汽かんを焚くかん部員の疲労を取っておきたかったこと、また、いよいよ戦闘になる場合に備えて石炭を節約しておくといったものであった。

▼東郷の連合艦隊は、三つの艦隊に区分されていた。
 第一艦隊は東郷がこれを直率し、「三笠」以下四隻の戦艦のほかに、装甲巡洋艦「春日」「日進」、それに通報艦一隻が加わっている。
この時代の決戦は、戦艦の巨大な砲力と防御力が担当すると言うのが常識であった。
この場合、春日と日進が問題であった。
両艦は装甲巡洋艦でありながら、戦艦の代用をさせられていた。ただし、この両艦には戦艦に準ずるだけの攻防力があると認められていたので、いわば無理をおして第一艦隊第一戦隊という戦術単位に組み込まれている。
このため、彼らは決戦場では戦艦についてゆく為に随分苦労をした。
 この第一艦隊は、朝鮮南東海岸である加徳水道に艦影を浮かべていた。
他に、この加徳水道での待機組には、第二艦隊の主力もまじっている。
その主力は第二戦隊であった。
旗艦「出雲」以下六隻の装甲巡洋艦と一隻の通報艦で成り立っている。
他に、第二艦隊の第四戦隊も加徳水道にいた。第四戦隊は「浪速」を旗艦とする四隻の巡洋艦戦隊である。
 この加徳水道の奥に鎮海湾がある。そこには旗艦三笠だけが仮泊していた。
陸上との連絡の便の為であり、もし出動するとすれば最後尾から走って最先頭に立つという運動をせねばならぬであろう。
 第三艦隊は、司令長官が片岡七郎で、旗艦は二等巡洋艦「厳島」である。
その主力は第五戦隊であり、「厳島」「鎮遠」「橋立」「松島」などで、いずれも日清戦争当時には花形の主力艦であったが、今は艦齢も性能も老いてしまっていた。
この第三艦隊の大部分が対馬付近で待機し、特に快速をもった第六戦隊「須磨」「和泉」「秋津洲」「千代田」といった二、三等巡洋艦などや、第一艦隊第三戦隊の二等巡洋艦「笠置」以下四隻の各艦が、それぞれ哨戒担当区域を密度高く巡航し、敵が対馬コースに出現する場合にいちはやく発見しようと努めていた。
 また他に、「付属特務艦隊」と言うものがあった。
「台中丸」を旗艦とする大小の汽船で編成されている。
全部で二十四隻で、そのうち十隻は仮装巡洋艦である。それらはすべて哨戒任務にあたっていた。
 このうち「信濃丸」という艦があった。
二本マストに高い一本煙突をもち、総トン数六三八七トンの鋼船で、大佐・成川揆が艦長として指揮し、連日、そのひょろ高い煙突から煙を吐きつつ、四月九日以来ずっと所定水域を遊弋していた。
 信濃丸は長崎五島列島の白瀬という小島の沖を北東に進んでいた。
この五月二十六日夜が更けてから浪が高くなった。
二十七日の午前二時ごろになると南西の風が相当激しくなり、見張りをする者たちはマストやロープに鳴る風に声を吹きちぎられて、よほどの大声を張り上げなければ、ついそばの者にも意志を伝えることが出来なかった。
 霧も濃くなった。
 午前二時四十五分、ブリッジでまどろんでいた艦長・成川揆は、誰かに声をかけられ、飛び起きた。
船橋は、重い沈黙が支配していた。誰もが叫びだしそうな衝動をこらえつつ、左舷の闇の中にポツンと浮かび上がった燈火を凝視していた。
     【バルチック艦隊、ではないか・・・】
 と、誰もが一様にその疑念をもった。
 これが、バルチック艦隊の病院船「アリョール」(偶然にも戦艦アリョールと同じ名)であることは、この瞬間の信濃丸にはむろん分からなかった。
バルチック艦隊においては、この夜間航海にあたって全艦隊に無燈火を命じた。無電も禁止した。
ところが、病院船アリョールのみは、同船の不注意によるものか、それとも理由があってのことか、無燈火の命令に従っていなかった。
 その燈火の正体を知るべく、成川大佐は接近を命じた。
接近して、備砲がないことを知った。
 ところが相手は、信濃丸を僚船と見たらしく、電気燈を点滅させて信号を送ってきた。
「こっちを仲間だと思っている」
 と、成川は言った。とすれば、どこかに相手方の僚船がいるという証拠である。
つまり、艦隊ではないか・・・。
 信濃丸の全ての乗員が、目を皿にして八方を見た。
しかし、海上からの霧が深く何も見えなかった。
成川は、相手の船を停戦させて臨検しようと思った。
彼は、先ずボートのおろし方の準備を整えさせた。
 ・・・と、このとき、にわかに夜が白んだ・・・。
 誰かが叫んだ。
 驚くべきことに、信濃丸はバルチック艦隊の真っ只中にいることを知ったのである。
大小の無数の軍艦が煤煙を吐きつつ、それぞれが巨城のごとく海面に横たわり、やぐらを上げ、白波を蹴り、ひた押しに北東に向かって進んでいるのである。
成川は船橋にいる士官たちに言った。彼自身気づかないことだったが、口調が漢文調になっていた。
「不意なるかな、すでに我々は死地に入った。全力を持って脱出を試みるも、あるいは能わざることあるべし。その時こそ、この船、非力ながらも敵の一艦を求め、激しく衝撃して、ともに沈むべし」
 ただ、この発見を鎮海湾の東郷閣下に報らせなければならない、と成川は言った。
「船が浮かんでいる限りは送信を続けるのだ」
 と言うと、転舵一杯を命じた。
船は傾ぎ、波が右舷に盛り上がって、たちまち甲板を洗い、やがて左舷のほうへ滝のように流れ落ちた。船は離脱すべく全速力を出した。
と同時に、
「敵艦隊見ゆ」
 との電波が、四方に飛んだ。
この付近のことを、海軍ではあらかじめ二○三地点としておいた。この電信は正確に言えば、
「敵の艦隊、二○三地点に見ゆ。時に午前四時四十五分」
 であった。
                   (続く)


[あらすじで読む『坂の上の雲』 第7回] [日露戦争の物語]

[あらすじで読む『坂の上の雲』 第7回]
              『南山から遼陽へ(その2)』

▼日本軍は、最初の日露両軍の大会戦である遼陽会戦を、砲弾の欠乏によっておこなうことが出来なかった。他方では、乃木軍(第三軍)の旅順攻囲戦が少しも好転せず、いたずらに砲弾を消耗している。
「一門五十発」
 という、開戦前の陸軍省の一砲兵課長立案の失敗が、国家の運命を左右するところまできていた。南山や金州でロシア軍の砲弾の洗礼をあびてから、
「せめて一門で百発を」
 というところまで修正されたが、事態は手遅れであった。砲兵工廠の生産設備は急に広がらないし、外国に注文しようにも(げんに注文した)すぐに間に合うようなものではなかった。
 八月三日、この作戦の開始にあたって、大本営は現地軍の最高司令官である大山巌に対し、
「本戦闘をして日露戦争を勝利に導くよう指導すべし」
 との訓電を発した。
 大山の司令部が、指揮下各軍に対し、遼陽に向かって前進を命じたのは、八月十四日である。
「早くやらねば、遼陽の敵の兵力はいよいよ増えてくる」
 という焦慮が、東京にも現地にもあった。
 八月二十二日、総参謀長・児玉源太郎は大山の許可を得、遼陽攻撃の命令を発した。
 遼陽には、クロパトキンの総司令部があった。遼陽決戦についてのクロパトキン作戦は、豪壮という形容があたるであろう。彼は、この会戦が野外決戦でありながら、遼陽城を要塞化したばかりでなく、その前面の山野を大規模に加工し、半永久的な野戦築城を施して日本軍を待った。攻守両面の要素をたくみに複合させたのである。本来、これがロシア戦法の伝統でもあった。
 そして、彼は、二十三万の大野戦軍をもちながら、なおもヨーロッパ側のロシアからの援軍を期待した。増援軍の予定は二個軍団と言う大軍であった。
 ただひとつ、彼は妙なことをした。
 遼陽城の城壁に大穴をあけたことである。それも幾つもあけた。用途は、退路であった。彼は、これほどまでに重厚で堅牢な野戦陣地をつくりながらも、負けて逃げる時の用意までしていた・・・。

▼奥軍が行動を開始したのは、八月二十五日夜半からである。
 名古屋師団(第三師団)が遼陽街道をとった。大阪師団(第四師団)は牛荘街道を進んだ。その中間を進んだのが、日本最強と言われた熊本師団(第六師団)であった。最左翼を秋山好古の騎兵旅団が進んでいる。
 二十七日、豪雨。
 この雨をついて奥軍は、敵の主陣地だと思っていた鞍山站に攻めかかった。が、ロシア軍主力は、既にその後方の首山堡に退いた後であり、軽戦して占領することが出来た。
「首山堡」
 という地名で総称しているのは、ロシア軍第二防御陣地のことである。陣地は首山という標高九十七メートルの丘をその西端とし、そこから東へかけて養魚池の東北まで及んでいる。クロパトキンは、この東西の線で、日本軍に損害を強いようとしていた。これに向かう日本軍は、奥軍と野津軍である。攻撃は、八月三十日の未明からはじまった。
「わしも、生まれてはじめて、あれほどの大いくさをした」
 と、奥保鞏はしばしば語ったが、ヨーロッパの戦史でもこれほどの大会戦は幾つもない。敵味方八百余門の大砲が、一時に砲門を開き、しかも終日砲撃を続行した。むろん砲だけではなかった。小銃・・・日露あわせて三、四十万挺はあったであろう・・・が、ことごとく火を噴いた。
 秋山好古とその支隊は、奥軍の主力よりもはるか北方へ進出し、放胆にも敵の内線の中にまで入り込んで、その右翼に強烈な刺激を加えつつあった。
「右翼に日本騎兵あらわる」
 との報が、シタリケベルグ中将の司令部に入ったのは、午前六時であった。続いて急報があり、日本騎兵の主力は王二屯を占領し、更に一部は鳥龍合と水泉を占領した。秋山好古の活躍であった。
 首山堡の線における激突が、遼陽会戦における最も激しい戦闘になった。歌で有名な橘中佐が戦死したのも、この戦いにおいてである。
 野津、奥の両軍にとっては「一進一退」などという生易しいものではなかった。しばしば撃退され、全線に渡って崩壊の危機すら見られるようになった。満州軍総司令部では、児玉源太郎が奥軍の不振に対し、何度首すじを赤くしたかわからない。
「何をしているか」
 という意味の電報をしきりに打った。
 野津軍は、シベリア第三軍団と死闘を繰り返していた。
 クロパトキンは前線を視察した。彼の目から見ると、野津軍の凄まじい戦い振りを見て、
「日本軍の主力はこれではないか」
 と、誤認した。
 敵情判断を誤ったと言えば、クロパトキン以上に児玉源太郎もそうであった。彼は、首山堡の線の敵がばかに頑強なのを見てひそかに驚いたが、それでもこれは遼陽の前哨陣地的なものだとみていた。押しまくれば敵は例によって退却し、遼陽に引き揚げ、そこをもって大決戦の拠点にするであろうとみた。
 が、クロパトキンは違った。この首山堡の線で日本軍と決戦すべく、遼陽にある予備軍をどんどん投入しはじめたのである。奥軍を後方から叱りとばしている児玉にも、甘さがあった・・・。

▼遼陽会戦を勝利に導いた最大の功績は黒木軍にあろう。
 太子河を渡り、遼陽を背後から包むか、もしくは側面から横撃しようというのが、黒木軍に与えられた使命であった。八月二十四日、まず紅沙嶺、孫家塞、高峰寺にわたる敵の第一線防御陣地を攻め、二昼夜にわたる激戦の末、全域にわたって攻め潰した。信じられぬほどの勇猛さであった。
 黒木軍は、ロシア軍の目をごまかす為に松永少将の指揮する一個連隊二千人だけを残し、それで敵の大軍を釣っておいて、主力は夜陰ひそかに北へのぼり太子河を渡ってしまおうとした。六万以上の大軍が、砲車を引いて、それをやろうというのである。
 黒木軍は、濁流の太子河を渡った。
 この異変に対してとったクロパトキンの態度と処置は、ロシア軍の運命に重大な影響を与えた。クロパトキン自身の報告文の文章を借りると、
「ここにおいて予は、我が前進諸陣地より本陣地へ軍隊を引き揚げ、黒木軍に対して大兵力を集中するの決意をなせり」
 局面は大転換して、東部戦線が主戦場になった。
 饅頭山と五頂山の争奪戦が展開された。肉弾戦が続出した。饅頭山が天王山になった。この山を占領すれば、遼陽を眼下に包囲できるのである。
 双方奪ったり奪われたりした結果、かろうじて黒木がとった・・・。
 すると、クロパトキンは、もう嫌気がさしてしまったらしい。遼陽を守るという本来の作戦そのものを捨ててしまったのだ。
「あと、奉天がある」
 と言うのが、クロパトキンの第二主力決戦構想であった。彼は、明晰すぎる頭脳と繊細すぎる神経をもった秀才で、決して大野戦軍を統帥する将領ではなかった。日本側の黒木は、クロパトキンの半分ほどの軍事知識もなく、その十分の一ほどの西欧的教養もない。その面では単に一個の薩摩武士に過ぎなかった。
 が、数万の軍隊を統べるだけの人格と、戦いに対する不退転の信念をもっている点で、クロパトキンははるかに及ばなかった。

▽次回、待ってました! 『旅順総攻撃』・・・。

▽おまけ 『軍神・橘中佐の歌』

1. 遼陽城頭 夜はた闌けて
  有明月の 影すごく
  露立ちこむる 高梁の
  中なる塹壕 声絶えて
  目ざめがちなる 敵兵の
  肝驚かす 秋の風

2. 我精鋭の 三軍を
  よう撃せんと 健気にも
  思い定めし 敵将が
  集めし兵は 二十万
  防禦至らぬ 隈もなく
  決戦すとぞ 聞こえたる

3. 時は八月末っ方
  我等略は定まりて
  総攻撃の命下り
  三軍の意気天を衝く
  敗残の将いかでかは
  正義に敵する勇あらん

 ・・・略・・・

19. 屍ふみ分け 壕を飛び
  刀を杖に 岩を越え
  ようやく下る 折りも折り
  虚空を摩して 一弾は
  またも中佐の 背を貫きて
  内田の胸を 破りけり

・・・って、19番まであるんかいっ!!


[あらすじで読む『坂の上の雲』 第6回 <南山から遼陽へ(その1)>] [日露戦争の物語]

 [あらすじで読む『坂の上の雲』第6回 『南山から遼陽へ(その1)』]

▼昨夜(過去ログなので、2005-4-18)は書評で好評の、坂本多加雄著『スクリーンの中の戦争(文春新書)』を読んだ。
面白かった。特にスピルバーグの『太陽の帝国』の詳細な解読には感嘆した。私が先日に書いた『セブン・イヤーズ・イン・チベット』感想も、時間さえあれば、このような手法で紐解きたかった^^
しかし、同時に、評論の行き詰まりも感じた。
例えば、『明治天皇と日露大戦争』と言う、スタローンの作品にも似た、物語を形成する最低限の「押さえるべき所」だけを押さえた「痛快のカタルシス」を重視した作品。
そう言った作品を懸命に言論肯定しようとする様に、とても辛さを感じた。
そう言った作品の魅力は、スタローンの『ロッキー』『ランボー』に代表されるように、観客動員ということで証明されている。
あえて、その長所を語る必要もなく思えるのだ。
・・・だが、同時に、そう言ったことも、キチンと説明しなくてはならない時代なのかも知れない。
『明治天皇と日露大戦争』『ロッキー』『ランボー』などの、「言わずもがな」の作劇上の欠点を、あえて「言挙げ」するヤカラが大挙として現れるようになったからだ・・・。
 【そんなことは百も承知だよ。大衆は、それでも楽しんでいるんだよ】

▼『スクリーンの中の戦争』にこうある。
 ≪明治三十七~三十八(一九○四~一九○五)年の日露戦争についての歴史的評価は、こんにち、おおざっぱに言って二つに分かれると思います。
 一つは、不凍港を求めて南下してくる膨張主義体質のロシア帝国に対する防衛戦争という、プラスの評価です。実際、ロシアに対する日本勝利のニュースは、植民地支配下にあった多くのアジアアフリカの独立運動家を勇気づけました。
 もう一つは、明治維新以来の征韓論(明治六年)、江華島事件(明治八年)、日清戦争(明治二十七~二十八)、閔妃暗殺(明治二十八年)と、大日本帝国が一貫して押し進め、後の日韓併合や満州国建国で完成した、朝鮮半島や満州への侵略戦争だというマイナスの評価です。
 そして、戦後の言論界においては、このマイナスの評価が圧倒的でした。・・・≫

▽で、数年前に至るまで、上記の後者の評価が、戦争と言うものの歴史的本質論として語られてきました。
教育現場は、そういった解釈で席巻され、学生や児童の戦争観を一色に塗りつぶしました。
しかし同時に、テレビでは『機動戦士ガンダム』などが放送されており、「善悪関係なく、戦争せざるを得ない状況」が描かれます。
映画では、先ほど書いたスタローンのシンプルな思想に裏打ちされた「戦うことのたぎり」に共感します。
学校の教育と、「世界」の情報の二律背反・・・。
多くの子どもたちは、子どもらしい柔軟性で、その真反対の教えを心で処理していきました。
しかし、それが出来ない子どもたちもいます。
その両極面を普通に重ね合わせられない「教育」を受けた若者がいます。
それが、昨日のニュース番組で語られていた、<フジテレビと和解したライブドア>の堀江社長、そして、<初公判のはじまった奈良女児誘拐殺人事件>の小林薫でしょう。
かたや、「カネ」でしか「世界」の「矛盾」を計れず、かたや、「欲望」でもって「世界」を更なる「混沌」に導こうとしたわけだ。
・・・この二人、以前にも書いたが、【皮ブニョブニョの肌合いがそっくり】だ。

世の中には、悲しくも「矛盾」が満ちている・・・。
中学・高校生には、そう言った「矛盾」を理解させられるような「教育」が必要である。
・・・戦争は、悲惨でいて、その本質の【根源】の部分には、絶対的に【血のたぎり】を抱いているのである。
それもまた、【真理】なのである。

       #       #       #       #

▼日本国がロシア国に対して国交断絶したのは、明治三十七年二月六日であった。ロシアの宣戦布告は九日であり、日本は十日であったが、しかし、既に戦闘はそれ以前から始まっている。
 陸戦の第一戦をすべき軍は、鴨緑江を目指す第一軍であった。
「よほど勇猛な将がいい」
 ということで人選されたのが、大将・黒木為禎である。
 黒木軍は三月八日より逐次広島を出港し、西朝鮮の各上陸地へ向かった。海上は、東郷の連合艦隊がその総力をあげて旅順港を塞いでいるため、ロシア艦隊の出没がなく、順調に輸送がすすんだ。
 騎兵第一旅団長・秋山好古が所属する「第二軍」の戦闘序列が明らかになったのは、三月十五日である。軍司令官は奥保タカであった。
 満州の大陸部を手のひらとすれば、小指一本突き出ているのが、遼東半島である。その小指の先に旅順要塞があり、小指の中ほどに金州城と大連湾がある。
「金州・大連付近を占領せよ」
 というのが、第二軍に与えられた使命であった。これによって小指の先の旅順要塞は孤立する。孤立させておいて、奥軍は小指の付け根に向かって進み、満州平野に入り、一方朝鮮の国境を突破した黒木軍(第一軍)と落ち合い、ともに平野決戦に向かう作戦であった。
 奥軍が展開し終わって本格的な攻撃を開始したのは、五月二十六日である。金州・南山の容易ならぬのに驚き、大本営に電報を打ち、
「重砲を送れ」
 と要請したが、大本営から折り返し、
「その必要なし。即攻せよ」
 と、命じてきた。必要があるもないも、大本営は予備の重砲などを持っていなかった。金州・南山における日本軍の死傷ははなはだしい。敵は機関砲(銃)というものを持っている。日本歩兵は機関銃を知らなかった。
 この最初の上陸戦闘に破れるということは、ただでさえ薄弱な日本の国際信用をいよいよ薄くすることであり、更にもっと重大な理由は、北方においてリネウィッチ兵団が、この戦場を救うべく動きはじめているという事実であった。
 この惨烈極まりない状況を破った人物がいる。第四師団(大阪)の師団長・中将・小川又次であった。
「我が軍はなるほど疲れきっている。しかし、敵もおそらく同じに違いない。いま一度、攻撃を起こし、今度は敵の弱点に対し、我が歩兵砲兵の総力をあげて集中攻撃することによって先ず一角を破り、それを敵の全線に広げてゆけばどうか」
 と、言った。奥保タカは賛成した。
 敵の弱点は、左翼にある。
「日本軍は午後五時以後、艦隊の応援のもとに攻撃を再開した」
 と、ロシア側の記録にもある。奥軍の砲兵は、予備弾まで一弾残らず打ち込み、午後六時半、歩兵が肉弾突撃を開始し、一挙に占領した。敵は南へ退却し、旅順要塞に逃げ込んだ。奥軍は、それを捨て置き、逆に北に進まねばならない。リネウィッチ兵団との決戦のためであった。
 金州・南山のロシア軍は、いかに奥軍の攻撃が苛烈であったにせよ、こうも簡単に退却すべきではなかったかもしれない。もし攻防がもう一日長びいていれば、既に弾薬尽き、死傷が全兵力の一割を上回っている奥軍としては、攻撃再開まであと何日を要したか想像も出来ない。
 奥軍の受けた予想外の大損害は、これを電報で東京の大本営に報じた時、
「電文のゼロ(0)が一つ間違っているのではないか?」
 と、大本営では疑ったほどであった。死傷三千と記された最初の報告を受けたときである。日本陸軍の首脳は、一戦闘での死傷を予想するのに、せいぜいゼロが二つの単位ぐらいにしか想像力をもちあわせていなかった。・・・日本軍は、はじめて、近代戦の凄まじさを知ったのだった。

     ・・・(『南山から遼陽へ(その2)』に続く)


[あらすじで読む『坂の上の雲』第5回 <開戦への道・4>] [日露戦争の物語]

[あらすじで読む『坂の上の雲』第5回 <開戦への道・4>]

▼日本政府がロシアに対して、開戦の意志を秘めつつ最後交渉をはじめたのは、明治三十六年夏である。
 ロシアに対する協商案を六月二十三日の御前会議できめ、八月十二日、ペテルブルグにいる栗野公使の手を経てロシア政府に提出した。協商案の主眼は、
「清韓両国の領土保全を尊重すること」
「ロシアは韓国における日本の優勢なる利益を尊重すること。そのかわり日本はロシアの満州における鉄道経営の特殊利益を承認すること」
 といったもので、互いに権益を犯しあわない、というものであった。
 ロシア側の態度はこうであった。
「そもそもロシア帝国がこんにちこのような盛大さを誇りえているのは全て軍人の力によるもので、外交官のおかげではない。極東問題のごときはよろしく外交官のペン先よりも、軍人の銃剣をもって解決するのが本筋である」
 後世という、ことが冷却してしまった時点で見てなお、ロシアの態度には、弁護すべきところが全くない。ロシアは日本を意識的に死へ追い詰めていた。
 ヨーロッパにおける諸国間での外交史を見ても、一強国が他の国に対する例として、ここまでむごい嗜虐的外交というものは例がない。白人同士では通用しない外交政略が、相手が異教の、しかも劣等人種とみられている黄色民族の国ともなると、平気でとられるというところに、日本人の辛さがあるであろう。

▼日本政府が対露開戦を決意したのは明治三十七年二月四日の最後の御前会議においてであったが、その会議が終わると枢密院議長・伊藤博文が、第四次伊藤内閣時代の司法大臣を務めた金子堅太郎を呼び、
「実は、今、開戦に決まった」
 と、打ち明けた。伊藤が金子に言うには、
「米国に行ってもらいたい。米国大統領と米国民の同情を喚起し、ほどよいところで米国の好意的な仲介により停戦講和というところに持ってゆけるよう、その工作に従事してもらいたい」
 ということであった。金子堅太郎には自信がなかった。
「かくいう伊藤も」
 と、伊藤博文は言った。
「もし、満州の野で日本陸軍が壊滅し、対馬海峡で日本海軍がことごとく沈められ、ロシア軍が海陸からこの国に迫った場合、往年、長州の力士隊を率いて幕府と戦ったことを思い、銃を取り兵卒になって山陰道から九州海岸でロシア上陸軍をふせぎ、砲火の中で死ぬつもりだ」
 金子は驚き、戦局がどうなるものか軍事専門家の意見だけでも聞いておこうと思い、陸軍の作戦を取り仕切っている参謀本部次長・児玉源太郎のもとを訪ねた。
「正直に教えてもらいたい、いったいこの戦争に勝つ見込みがあるのかどうか」
 と、金子が問うと、児玉はパッと煙草のけむりを吹き出して、語り始めた。
「どうにか六分四分まで漕ぎつけたい。つまり六ぺん勝って四へん負ける。そのうちにたれか調停者が出てくるだろう。それが米国であることが望ましい。君に八面六臂の大活躍を米国でやってもらうことを、俺は拝むような気持ちでいる」
 この後、海軍はどうかと思い、海軍省に山本権兵衛を訪ねた。山本が説明した海軍の見通しというのは、陸軍の児玉よりもやや明るかった。
「まず日本の軍艦の半分は沈める。人も半分は殺す。そのかわり、残る半分をもってロシアの軍艦を全滅させる」
 というものであった。

▼次回、[第6回 <南山から遼陽へ・1>]に続く・・・。


[あらすじで読む『坂の上の雲』第4回 <開戦への道・3>] [日露戦争の物語]

[あらすじで読む『坂の上の雲』第4回 <開戦への道・3>]

▼このような空気の、というより歴史的条件下の露都ペテルブルグへ、伊藤博文はわずかな希望を抱きつつ行った。このときの伊藤は、日露戦争の回避に、ほとんど生命を賭けているといったところがあった。
 ところが、ロシア側は伊藤に対し、意外な態度を見せた。
 ・・・歓待した。
 彼がホテルに入ったその日、大蔵大臣で外交面にも発言権をもつウィッテが、みずから訪ねてきた。彼はロシア帝政における唯一の日露戦争回避論者であり、日本の伊藤博文もそうであるということを知っている。
「閣下の来遊を心から喜ぶ。この機会に、たがいに胸を開いて極東問題について語りあいたい」
 と、ウィッテは言った。その態度に、人の良さのある伊藤は大いに気をゆるし、極東平和のあるべき姿について論じ、当面のロシアの侵略的態度について論難した。
 翌日、伊藤は外相ラムスドルフに会った時も、同じように論じた。しかし、ラムスドルフにはウィッテに見られたような譲歩的態度はないばかりか、
「伊藤閣下、あなたが言われる朝鮮の保護と独立ということを聞いていると、日本が朝鮮の全てを取ってしまうことになり、ロシアが何物も取れないことになる。これでは協商ということが成立しにくいではないか」
 朝鮮の半分くらいはロシアが取りたい、という匂いが、彼の態度にはある。
 ラムスドルフの背景には、軍部がある。軍部の総帥は陸相クロパトキンであった。クロパトキンはラムスドルフに対し、
「伊藤には、平和のパンを与えよ」
 という旨の意志を吹き入れていた。何故ならば、いざ戦争という場合、ロシア本国から満州の予定戦場へ大軍を送るためのシベリア鉄道が、今年中には完成しない。これが完成するまでは開戦を避けるべきであり、それまでは日露は平和であるほうが、戦略上必要であった。
 伊藤はむろん、そういう事情を知らない。
 ・・・ともかく、日露の危局は平和外交で回避できる。
 という自信を得、ロシアを離れた。
 そして、ドイツに向かう。
 ベルリンに着くと、伊藤は桂首相に電報をうち、
「日英同盟は調印を見あわせよ。ロシアとの協商が可能のようである」
 と、助言した。
 首相・桂太郎も、外相・小村寿太郎も、この伊藤の私的外交には閉口した。
 伊藤はベルリンのホテルで待っていた。
 訪露中、ロシア側は、伊藤の打診に対し、文書で回答する旨を伊藤に約束していたのである。
「かならず幸便に違いない」
 と、伊藤ほどの者でも、期待を、彼なりの希望で着色しながら待った。小娘のようであった。
 やがて、それが来た。
「ロシアの満州での行動は自由である」
 と、ロシアは自国の侵略の自由を無制限に認め、日本の朝鮮に対する行動については、
「制限された自由しか認めない」
 というものであった。大国は常に自由であり、小国は常に制限されている、という帝国主義の大原則を、わざわざ小学生に教えるように教えてきた、と言っていいだろう。
 伊藤は失望した・・・。
       (To Be Continued ・・・ PART4)
       いよいよ! 始まります!! 大戦争が!


[あらすじで読む『坂の上の雲』第3回 <開戦への道・2>] [日露戦争の物語]

[あらすじで読む『坂の上の雲』第3回 <開戦への道・2>]

▼その頃、満州に居座ったロシアは、北部朝鮮にまで手を伸ばしている。
 制覇極東王ともおくりなすべきアレクサンドル三世が死んだのは、日本が日清戦争を始めた年であった。この頃、「ロシアにとって残っているのは、満州と朝鮮だけである」と提言したロシアの宮廷人がいた。シベリア鉄道の工事が進むにつれ、満州と朝鮮がその勢力下に引き入れられるであろうことは、もはや時間の問題に過ぎない。ロシアの侵略主義者にとっては、満州と朝鮮は奪らねばならない。ロシアの極東進出の大いなる眼目の一つは、南下して、遂には海洋を見ることである。不凍港を得たかった。
 それには、満州を得なければならない。特に南満州の遼東半島が貴重であった。そこには、旅順、大連、威海衛といった天然の良港がある。更に、その東の朝鮮半島。これを得てはじめてロシアの南下政策は完結するであろう。
 ところが、日本が勃興した。
 日本は歴史的にロシアの南下策を恐れることはなはだしい。更に、日本防衛の生命線として朝鮮半島を重視した。この朝鮮半島を、露清両勢力から独立した地帯にすることを国防の主眼に置き、そういう朝鮮問題が争点となって日清戦争を起こした。
「日本は清国に負けるだろう。」
 と、ロシアは見た。見るだけでなく、清国を応援した。
 ところが、日本が勝った。勝って、その宿願どおり、朝鮮から清国勢力を追い払った。
「満州と朝鮮」
 という、この二つの課題を残して、アレクサンドル三世が死んだ。自然の勢いとして、それは後継者に継がれなければならない。ニコライ二世が二十五歳で即位した。彼は遼東半島を清国に返せと日本に迫り、日本が還付すると明治三十年十二月十八日、旅順と大連に兵を上陸させ占領した。清国人は、仰天した。が、更に遼東半島はロシアのものになり、調印された。
 要するに、日露戦争の原因は、満州と朝鮮である。満州を取ったロシアが、やがて朝鮮を取る。これは、極めて明白である。日露戦争にもし日本が負けていれば、朝鮮はロシアの所有になっていたことは疑うべくもない。
 この時期、ロシア軍人が観察し、分析した日本陸海軍の実力評価は、次のようである。
 明治三十三年以来、開戦までの駐日ロシア陸軍武官は、ワンノフスキーという陸軍大佐であった。彼はロシア陸軍省に対し、
「日本陸軍は、乳児軍である」
 と、報告した。
「日本陸軍が、ヨーロッパにおける最弱の軍隊の水準にまでたどり着けるだけの、道徳的基礎を得るまでに、あと百年はかかるであろう」
 このワンノフスキー報告が、その後のロシア軍部の日本観の基礎になった。
 日本海軍については明治三十六年、その有力な観察者がロシアから来た。この年の四月、神戸で大艦覧式が行なわれたが、これを見学するためにロシアから巡洋艦「アスコリド」が来日した。艦長はグラムマチコフ大佐であった。彼は艦覧式を見てから、駐日ロシア公使ローゼンに対し、
「なるほど、日本海軍は、軍艦を外国から購入することによって、物質的装備だけは整えた。しかし、海軍軍人としての精神は、とても我々には及ばない。更に、軍艦の操法、運用に至っては幼稚である」
 と、言った。
 ところが、同じ時期、英国海軍の士官が観察したところでは、日本人の軍艦操法や運用のうまさは世界でかろうじて英国海軍のみが比肩しうる、と、およそ逆に評されている。
 更に、ロシア陸軍における最優秀の将軍とされた陸軍大臣クロパトキンは、明治三十六年六月、日本に来て、日本陸軍をつぶさに見学して、やはり世界最弱というに似たような断定を下した。
「日本兵三人にロシア兵は一人で間にあう。我々の陸軍は、十三日間に四十万の軍隊を満州に集結できるし、その用意もしている。これは、日本軍を敗北させるに必要な兵力の三倍である。来るべき戦争は、戦争と言うよりも軍事的散歩に過ぎないであろう」・・・
       (To Be Continued ・・・ PART4)


[あらすじで読む『坂の上の雲』第2回 <開戦への道・1>] [日露戦争の物語]

 [あらすじで読む『坂の上の雲』第2回 <開戦への道・1>]

 ▼日本は、日清戦争の結果、2億両(テール)の賠償金と、領土を得た。領土は、台湾及び澎湖諸島、および遼東半島である。
 講和条約の調印は、明治二十八年四月十七日におこなわれたが、そののち一週間もたたぬまに、ロシアが、
「遼東半島を清国に返してやれ」
 という横ヤリを日本に入れてきた。ロシア自身が考えて発案したものだが、ロシアはこの要求を世間の公論というかたちにして、正当の擬態をとるため、フランスドイツを語らって要求してきた。表向きの理由は、
「遼東半島をうばうことは、東洋の平和に障害がある」
 というもので、むろん口実にすぎない。なぜならば、その後わずか二年のちにロシアは、みずから遼東半島に軍隊を入れてうばってしまったのみならず、満州まで占領してしまったのである。
 日本は、戦慄した。
 ・・・この要求を入れなければ一戦あるのみ。
 という態度がロシア側にあることが、駐露公使西岡二郎のさぐりによってわかったのである。日本は、とうていロシアと戦えるような国ではない。ましてドイツ、フランスをも敵にまわすような実力はなく、実力がなければその言いなりになるしかなかった。日本は遼東半島を還付した。
 日本側の政治家のほとんどは、ロシアと戦って勝てるとは夢にも思わなかった。日本の代表的政治家である伊藤博文は、恐露家というあだ名をもらっていた。
 まず問題は、海軍であった。
「・・・もし日本に」
 と、当時、ロシアの海軍部内でいわれた。日本の海軍が消滅すれば我々露国は二十隻程度の軍艦をもってこの列島を包囲し、日本に手も足も出させぬようにして城下の盟をちかわせることができる、・・・というものであった。
 日本は、海軍を強化しなければならない。
 これをやってのけた企画兼推進者は、ただ一人の人物、山本権兵衛であった。
 日清戦争の段階での日本海軍は、海軍とは名のみ、ぼろ汽船に大砲をつんだだけといってもいいような軍艦が多く、むろん戦艦ももっていない。戦後十年の日露戦争直前には巨大海軍ともいうべきものをつくりあげ、世界の五大海軍国の末端につらなるようになった。
「日本人は、信じがたいことをなした」
 と、当時、英国の海軍評論家アーキバルト・S・ハードはいっている。第一級の戦艦六隻と、第一級の装甲巡洋艦六隻をそろえ、いわゆる六六制による新海軍をつくった。
 その日本海軍の設計者が、この建艦計画当時やっと海軍少将になったばかりの山本権兵衛であり、明治海軍のおもしろさは一大佐か少将の身で大改革をやりえたということである。
 戦艦「三笠」を英国のヴィッカース社に注文したのは明治三十三年であったが、しかしこの時期にはすでに海軍予算は尽きてしまっており、前渡し金を捻出することができず、権兵衛は苦慮した。このころ権兵衛は四十八歳で、足かけ三ヵ年海軍大臣をつとめている。
 当時、西郷従道が内務大臣をしていた。万策つきた権兵衛が西郷になにか知恵はないものかと訪ねると、西郷は事情をききおわってから、「それは山本サン、買わねばいけません。だから、予算を流用するのです。むろん、違憲です。しかしもし議会に追及されて、許してくれなんだら、あなたと私とふたり二重橋の前まで出かけて行って腹を切りましょう。二人が死んで主力艦ができればそれで結構です」
 三笠は、この西郷の決断でできた。
                    (To Be Continued ・・・ PART3)


[あらすじで読む『坂の上の雲』第1回] [日露戦争の物語]

 [あらすじで読む『坂の上の雲』第1回]

 ◆ 0・これより始まる連載は、昭和47に発刊された『文藝春秋・臨時増刊<「坂の上の雲」と日露戦争>』に載せられた「ダイジェスト 坂の上の雲」である。
あの長大な文庫(全8巻)の大叙事詩を、うまくまとめている^^
私は、これより、そのダイジェストを転載しようと思う。
33年前の雑誌記事であり、著作権上、そう問題にはならないと思われるが、何か抗議があった場合、即やめる^^;
また、元の文章の雰囲気を壊さない程度に、たまに私が文章を変えたり、意味が分かりにくいところには、文章の付け足しを行なうかも知れない。あしからず・・・。
それから、私は、「あらすじで読む名作」といった類のものを批判する立場の者であるが、今回、こうして、前言を翻して試みに行なっているわけで、批判は甘んじて受けよう・・・。

       #       #       #       #       #

 ▼ 1・はじめに
司馬遼太郎氏は、膨大なるこの作品の第1巻(全6巻、文庫では全8巻)を、
『・・・明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。
その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の知恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで捜査する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇跡といっていい。
その奇跡の演出者たちは、数え方によっては数百万もおり、しぼれば数万人もいるであろう。しかし小説である以上、その代表者をえらばねばならない。
その代表者を、顕官のなかからえらばなかった。
一組の兄弟にえらんだ』
として、秋山好古と真之の生い立ちから筆をおこし、真之の親友でのちに近代短歌・俳句の祖となる正岡子規を登場させて、明治の勃興期に生きる若者を描いている。

 ▼ときは幕末。秋山兄弟は四国松山藩の貧乏お徒士の子に生まれる。好古は西郷隆盛の西南の役がおこった年、東京の陸軍士官学校三期生になり、わずか二十頭からはじまったという貧弱な日本騎兵を志望した。
司馬氏は、ここで拡充されてゆく騎兵隊に則して日本陸軍の発達史を克明に描き、シベリアをその手におさめ、沿海州、満州を制圧し、朝鮮半島へも南下してくるロシア帝国の勢力を恐れての日清戦争への突入に筆おどらせる。好古は騎兵第一大隊長として遼東半島の花園口に上陸して初陣を飾り、旅順攻略では騎兵無用の意見がつよかった陸軍の内部を黙らせるに足りる活躍をする。
いっぽう、弟の真之は親友の正岡子規と前後して上京、神田の共立学校に子規とともに学ぶ。
二人は帝国大学を志して大学予備門(旧制高校)にすすむが、このころより子規は文芸が好きになり、真之は自分に二流の才しかないのに失望、明治十九年築地の海軍兵学校を受験した。艦船六隻から出発した、これまた陸軍に劣らぬ貧弱な明治海軍であった。
司馬氏は真之の成長に添いながら日本海軍の発達史を展開させ、そして日清戦争に黄海海戦、威海衛の水雷戦を描く。
『おそらく清国艦隊が勝つであろう』と列強海軍のほとんどの専門家が予想していたのに反して、日本海軍が圧勝するのである。
子規は結核に苦しみながらも、われわれ文学に志す者もぼやぼやしてはいられないと、従軍記者となって満州の戦野に赴いた。

 ▼それから十年、日露戦争である。
真之は三十六歳、専任参謀として東郷平八郎連合艦隊司令長官について旗艦「三笠」に乗り組み、バルチック艦隊を向うにまわしての、日本の運命を決する海上作戦を一人でになってゆかねばならぬ任務にあった。正岡子規は新俳壇の巨星と仰がれるようになったが、すでにこの世にはなかった。
好古は四十五歳、陸軍少将、騎兵第一旅団長として習志野にいた。彼の旅団は満州の野でコサック騎兵と決戦するため待機していたのであった。
司馬氏は書く・・・。
『やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。最終的には、このつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうと思っている。
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう』

            (To Be Continued ・・・ PART2<開戦への道>)


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