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[私の「戦後70年談話」!!] [戦争コラム]

☆・・・実はもっともっとゆっくりと書く時間があると思っていたのだが、結局、時間がない中で書くことになって、非常に申し訳ない。

 後から、徐々に手直しさせて頂く。

     ◇     ◇     ◇

 さて、最近、安保法制に対しての反対が、そのデモを含め「集団ヒステリー」の域に達していて、ニュースなどを見ていても、なんかげんなりさせられる。

 与党に対しての、その成立過程への違法を問う批判もあり、また、いつもの「いかなる戦争も反対」という<念仏仏教>のようなデモも行われているようだ。

 今回は、マスコミと司法学者のマッチポンプ状況もきつい。

 そもそもが国民選挙で正当に選ばれた政権に、あのようなデモこそが「民主主義」と思っている思考回路も辟易だ。

 まあ、私の家は、テレビが通じていないので、それらの集団ヒステリーの情報をさほど浴びずに済んでいるのは幸せなのかな?

 故に、淡々と、政治が進んでいく結果だけ知ることができている。

 安保法制を「戦争法案」と言い換えて貶める、いつものイメージ操作(レッテル貼り)があり、「徴兵制」に帰結するという、いつもの、マゾ性癖のような妄想的な短絡思考に、反対デモを繰り返している者は、逆説の期待とともに興奮しているようだ。

 反対デモをコーディネートしているのは、いつものK産党である。

 私は、あたかも「戦争」を絶対悪としておけば、自分らが正論を語れていると思っている「思想」を許せない。

 今回、私は、ここで、戦争の本質の、最も重要なポイントについて書きたいと思う。

 戦争は「絶対悪」ではないよ、と言いたい。

 それこそが、戦後70周年を迎えた今日に、私が言っておきたいことだ。

 最初に書いておくと、『「戦争」とは、反「虐殺」システムである』ということだ。

 これは、世界中の誰も気付いていない「戦争のより良き本質」である。

▼K産党や、一部の原理主義的宗教は、当初に定められた「思想」を絶対的な真理として動いている。

 その政治思想や宗教教義は、まあ、それを紐解くと、なるほど、字面(じづら)では納得出来ることが書いてある。

 だが、世の中は、得てして、それとは別の「例外」で動くことが多く、

 また、人間とは、「正しさ」のみで生きているわけでもない。

 例えば、簡単に言うと、たばこや酒のように、身体や心に害のあるものを嗜好する側面もある。

 禁欲的に生きるが正しき道であろうが、時に、アダルトビデオを見たり、不倫したり、風俗に行って性を開放したくなる時もある。

 それらは不道徳である^^;

 また、各種、「ムダ使い」と言う浪費も楽しいものだ。

 ・・・楽しく生きることは、正しく生きることと合致しない。

 しかし、K産党や一部の原理主義的宗教は、それらを良しとしない。

 結局は不合理となる「完璧」しか認められないわけだ。

 だから、K産党などは、国会で反対ばかりしている。

 K産党は、いつしか、その「教典(『共産党宣言』的なもの)」を逸脱し、反対することこそが党是となり、更に、「反対すること」=「反日(行動)」となり、大陸(中国)や半島(南北朝鮮)などと連携を取り始めるのだった(そう、虐殺の一助になっている)。

 とある原理主義的宗教は、例えば、「経典」にある「他の血が混ざるを避ける」と言う記述を頑なに守り、毎年、輸血が行われれば助かる信者をみすみす死に至らしめている(そう、虐殺に至らしめる)。

 そこに「援用・拡大解釈」の余地はない。

 この頑なさ! 「いかなる戦争も反対」とシュプレヒコールを叫ぶ者どもと似ている。

 ・・・社会においては、その表層に現れる問題は、主に「例外」であることが非常に多い。

 問題となることは、定義では捌けないのだ。

 それがわからないK産党や一部の原理主義的宗教は、社会と著しい乖離を果たしていく。

 しかし、理想に燃えた若者は、得てして、その「定義」に共感してしまう時がある。

 例えば、セックスを不潔なモノと考え、それを嫌悪したりしちゃう。

 いや、その行為で、人類は存続しているんだよ^^;

 また、「殺人」を「絶対悪」と考え、「いかなる殺人も悪」と断じてしまったりする。

 いや、法廷だって、「情状酌量」や「正当防衛」が認められているんだぜ。

 そのような意固地さが、「安保法案反対」デモに帰結している。

 K産党や朝日新聞をはじめとする多くのマスコミは、若者の「無知」につけこんで、「いかなる戦争も反対」のシュプレヒコールをあげさせ、踊らせている。

 そういった行為が、「大虐殺国家・中国」を手助けしていることを知らずに・・・。

 ここで、ちょっと、定義を挙げておく。

   虐殺国家=中国

   テロ国家=イスラム諸国

   戦争国家=アメリカ

 この定義は、徐々に文中で効果を発揮していきます。

 「虐殺」「テロ」「戦争」・・・、この中に、究極の「絶対悪」が存在しています。

▼ちょっと話を変える。

 世の中は、人間関係で成り立っている。

 私など、自分が合わない人とは付き合わないことにしている。

 お店を経営している今でも、店の雰囲気をいちじるしく乱す人は「出入り禁止」にしたりしている。

 だけども、昔は、「誰とでも分かり合える・仲良くなれる」と信じていた時期もあった。

 それがなかなか難しいと認識することが大人になることだと、非常に遅いが、二十代中盤にやっとわかった。

 いや、私はいまだに、人を信じてしまい、こっぴどく騙されたりする^^;

 でも、今は、それを楽しむだけの大人の余裕がある。

 だから、「(世界の)誰とでも分かり合える・仲良くなれる」と若者が考えるのはしょうがなく、それを無下に否定するようなことがあってはならず、若者がこれからの経験(通過儀礼)を経て「世界」を知ることが大事だと思う。

 世の中には、「例外」がはびこり、とんでもなく悪意に満ちた人間や、「人食い人種」のごとき、価値観の全く違う人間が存在するのである。

 この間、こんな文章を読んだ。

「・・・自分を強くし高め、それでいて相手と和することが争いの抑止になる、という主張がありますが、それは、例によって「国際社会の悪意ある奴らにはそんな道理は通用しない」という現実派wの炎上沙汰になっていますが、自分は、この主張に近いことを語っている人物をひとり知っている・・・(文章表現は変えています)」

 つまり、理想を掲げる者に対し、現実を説く者(私みたいの)をバカにしていて、自分は、そのような理想主義を実践している人を知っているというのだ。

 でも、それこそが、妄想に過ぎない。

 それは、自分が強い力を持っているということでのみ成り立つ話なのである。

 世の中の大半の人間は、そんなに強くない^^;

 この人、リベラルな主張をいつもしているのだが、「自分を強くし高め、それでいて相手と和することが争いの抑止」って、それじゃあ、あたかも、日本に「核武装しろ」と言ってるようなものじゃん^^

 この人、エンターテイメントについて語ると抜群に面白く、私は期待して、いつも、そのブログを読むのだが、思想について語ると、矛盾だらけになる。

 なんで、じゃあ、世の中から犯罪者はいなくならなくて、イスラム国はクビ斬りを繰り返しているんだよ、と問いたい。

 ヘイ! あなたのその思想で、世界を平和にしてくれよ、と。

 「人間は誰しも分かり合える・仲良くなれる」と言う主張を臆面もなく語る人間ってのは、もう、これまでの膨大な歴史の中で分かり合えなかった・仲良くなれなかった人間や国の関係をバカにし過ぎている。

 あんたらよりも頭のいい人がいっぱいいたはずなんですけどね。

 なにやら、この人、リベラルな映画評論家・町山智浩を信奉しているようだが、その町山智浩も、切れ味のある評論で評価を得ていたが、『進撃の巨人(実写版)』の脚本を担当して、その散々な出来にボロクソ言われていて、馬脚をあらわしたって感じだ。

 そもそも、リベラル的な町山智浩だが、調べてみたら、その好みの映画のほとんどが「争いに勝利する」ってなものなんだよなぁ。

 「戦って勝ち取る!」って種類のものだ。

 また、町山が脚本を担当した『進撃の巨人』だが、人類を捕食・虐殺する巨人らを、主人公らが駆逐する物語である。

 まあ、現実と創作は違うのだが、この町山は、反戦的なサイドに立つ思想を持ちながら、「戦争をしなくちゃならない状況」があるとわかっているようだ。

 「いかなる戦争も反対」の考え方ではないようだ^^

 でもね、兵器が大好きで、戦争や闘争をロマンチックに描いている宮崎駿が、安保法案に反対するのはどうかと思う・・・、と思いきや、少なくとも、彼は、その成立過程に異を唱えている意味のほうが大きいのだろう(その成立過程の是非については後で記す)。

 私は、今でこそ宮崎アニメを好むが、子供の頃、『未来少年コナン』や『風の谷のナウシカ』で見られたような原始共産主義のような世界に、それと知らず、異常に嫌悪を感じていました。

 おそらく、私の時代から、イジメの元凶の一つ『滝山コミューン一九七四(原武史著)』で描かれたような教育現場が現出し始めていたので、その息苦しさを感じてもいて、無意識に宮崎アニメとリンクさせていたのだ。

 また、日ごろ、「セックス」や「ドラッグ」について歌っているロッカーが、こういう時に反対するのも首を傾げざるを得ない・・・。

 話を戻す。

 で、人間関係において、自分と合わない人とは距離を置くのは正しい選択だけど、世の中、「いい人」「悪い人」の二元論では片づけられない。

 それを実行し続けると、K産党や一部の原理主義的宗教と同じになってしまう。

 「いいトコ」もあるし「悪いトコ」もある、ってのが、物ごとを判断する基準だろう。

 つまり、人は何かを判断するとき、明確な「良し」「ダメ」の基準がない限りにおいては、加点・減点のポイント制の結果で判断している。

 それは、道理の時もあれば、打算の時もある。

 あの人は、いつも鼻くそを飛ばしているけど、凄く明るいいい子なので親友だ・・・、あの人は嫌味ったらしいけど、いつもおごってくれるから好き・・・、あいつは生真面目で融通が利かないから、羽目を外したいときには誘わない・・・、あのアメ車は買いたいけど、うちの車庫には入らないので諦める・・・、あのレストランはうまいけど、料理が出てくるまで時間がかかるから行かない・・・、などなど。

 もっともっと色んな項目で、人は対象を判断する。

 人たるもの、そういった判断基準であらねばならない。

 ほとんどの人間が、そのような判断基準で生きている。

 が、人は、自分の生活に直結していないとき、判断基準を安易に決める。

 安保法案反対デモなどをして、「いかなる戦争も反対」などと、本来はのたまえるはずがないのである。

 よーく考えれば、その行動がどのような意味合いを持つのか分かろうはずなのに、考えを放棄していて、「戦争・怖い・反対」と唱えていれば安心できると思っているのだ。

 まさに、これ、「原発・怖い・反対」と同じである。

 あれも、マスコミのイメージの産物の「集団ヒステリー」である。

 こういう人は、「被爆」と「被曝」の区別もついていないんだろうな。

 その人らの主張に沿っていたら、到底、東京にも住んでいられない道理なのだが、なんか、そいつらは普通に住んでいる^^;

 関東には、数十年前の中国の原爆実験の繰り返しによって、福島原発以上の放射線が降り注ぎ続けていたんだよね。

 各種放射能の半減期は、一万年だったりするじゃん? 「原発・怖い・反対」の人は、到底、東京に住んでいられないと思うのだが・・・。

 福島は、ほとんど、ガイガーカウンターにも放射線が反応しなくなっている。

 なのに、福島の生産物を忌避する人がいる。

 でも、同じく、半減期何万年の放射線にさらされた東京での野菜は普通に食べ、安心している人たちがいる^^;

 そういう人ってね、自分は安全と無知をさらけ出して安心しつつ、面白いから福島の悲劇をエンジョイしているに過ぎない・・・。

▼さて、70年前、日本は戦争に敗北し、アメリカの統治下におかれた。

 そこでは、「日本軍国主義の悪、新しい思想・民主主義の徹底的な<教育>」が為された。

 アメリカにとって都合のいい「民主主義」である。

 それまでの日本の政体は…、思想は…、徹底的な悪とされた。

 マスコミ、教育現場、総動員で、アメリカ的な民主主義を「洗脳」された。

 それは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)」と言う。

 アメリカ的な民主主義は「個人主義」の意匠を纏う。

 が、昨今の歴史を見てもわかるように、アメリカは、有事の際には、当然ながら一つにまとまる「常識」がある。

 日本においては、その、「国民一丸の結束」の箇所だけは輸入されなかった。

 更に、中国古来の人心掌握(支配)術をともなった中国K産主義思想が流入した。

 「洗脳」と言う言葉は、もともと、中国から世界に流通した言葉である。

 その、「飴と鞭」の使い分けによる人間を従わせる術は、他国に類がない。

 基本、中国は、国が変わるために、前政体の首脳を虐殺し続けて、禍根を残さない歴史を繰り返してきた。

 だが、拷問技術や、性的な技術、人格を改造する術、人肉食の常識などは、延々と引き継がれてきた。

 歴史の受け継ぎ手は、「自分の願っていた悪徳」は「引き継ぐ」のである。

 ロシアにはソビエトが誕生しており、日本においてコミンテルン(共産主義政党による国際組織である。別名:第三インターナショナル)の指示で動くスパイが暗躍していた。

 日本・・・、思想的にグダグダとなる。

 思考回路がキメラ(異質なものの合成)のごとき、統率のできないものとなってしまう・・・。

 そもそも、日本には、思想的に考えて、どう考えても「民主主義」としか呼べない風土が育っていた。

 戦前・戦後は「軍国主義」の台頭と言われるが、それらも、正当な選挙によって選ばれた内閣である。

 だが、戦後の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、日本軍国主義と日本国民との分断を図った。

 つまり、戦争は、軍国主義者たちの暴走ですよ、あなたがた日本国民は騙された犠牲者であり被害者なんです、としたいわけだ。

 日本国民は、民主主義において、戦争に至る政権を選んだのに、だ。

 だが、後になって、アメリカによって、「戦争は、政府上層の軍国主義者によって為された、自分らの責任ではない」と言う嘘をつかされるに至る。

 自分でつく嘘には折り合いはつく、だが、他人に誘導された嘘と言うのは、精神的に異常をきたし、その後遺症は取り返しのつかないレベルともなる。

 また、その戦争が、日本人は悪とは思っていなかったが故に、それを悪と認識を歪められる段においても、民族的精神を揺り動かされるのだった。

 ここは、全てをナチス、ヒトラーのせいにして安心しているドイツ人とは異なる箇所だ。

 アジアで抜きんでていた日本国は、欧米列強の帝国主義の中で、とてつもない「虐待」を受けていた。

 その最たるものは「ハルノート」と言う、日本のエネルギー問題に大打撃を与える通告であった。

 アジアの旗手であった日本は、後続のアジアの国々のためにも、力を見せなくてはならなかった。

 このままでは、もちろん自国の日本をはじめ、アジアは、欧米列強に蹂躙されるがままだった。

 怒りを見せなくてはならなかった。

 それは、本来の国際法においては、「情状酌量」であり「正当防衛」の<戦争>となり得た。

 戦後に日本が断罪された、敗戦国への強烈なイビリである「東京裁判」は、もはや「法廷」とは呼べないことは、多くの歴史家が指摘するところだ。

 月並みの引用だが、それは、あのマッカーサーも、日本が自衛として戦争を始めたことを認めざるを得なかったことでわかろう。

 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」を遂行していたマッカーサーが、日本の戦争開始の理由を肯定しなくちゃいけないほど理解できてしまったのは、歴史の特異点であり、両国が分かり合える、同盟国に至る断片ではある。

 そんな、中国共産党、アメリカ政府、コミンテルンの狭間で揺れ動く日本において出来た「牙を持たないキメラ憲法」が、どんな白洲次郎の活躍によって肯定されるべきものであろうとも、さすがに、70年が経ち、改定の時を迎えたことは否定できない・・・。

 同盟国のアメリカも、最初こそ武力を持たないように仕向けていたが、ここ数十年、日本が、なに故に、こんなにも力の根拠のない国の運営を続けていられるのか不思議になっている。

 アメリカは、「俺らに頼らずに、もう、戦後70周年経っているし、自分の国は自分で守ってくれよ」と思っている。

 戦争はもうかるけど、平和時の軍隊の維持は金が掛かるのだ。

 日本は、ジャンケンでいうと、パーしか出せないのに、国際社会で発言しているようなものだ。

 例えば、「パー」とは経済力だが、それも衰えを見せているし、「チョキ」はコミュニケーション(外交)能力であり、「グー」は武力である。

 ただね、日本には、他国が持ち得ない「純粋」性はある^^;

▼この間の広島の原爆の日(8/6)、ニュースで何度も流されていた映像に、老婆が「戦争は嫌だ。原爆は家族みんなを殺してしまった。戦争は嫌だ」と言ってるシーンが繰り返し放送されていた。

 私は、それを見ながら、「原爆は戦争じゃない。戦争中に行われた<虐殺>だよ」と呟くのだった。

 戦争とは、多くの局面を含むので、東京大空襲や原爆投下など、民間人を無差別に大量に殺傷する「虐殺」の様相を呈すことがある。

 だが、基本、戦争とは、外政においては、国と国の間で締結された合法的な武力解決手段だ。

 嫌いな人はいようが、世界的に認められている行為だ。

 問題となるのは、「虐殺」だ。

 これは、もう、絶対的に認められない行為だ。

 戦争は、誰しも戦う権利を有する。

 だが、虐殺には、それがない。

    「殺されるために殺されるのだ」

 第二次大戦の総犠牲者数は、多い数値では8000万人とされている。

 だが、少なくとも、共産主義思想のかかわる虐殺の数だけでも、ソビエト・中国を合わせて、一億人を超える。

 第二次大戦の犠牲者数には、ナチスの大量虐殺も原爆の犠牲者も含まれている。

 それは500万人超であるので、虐殺数に加えると(すいません、一人一人の尊い犠牲者を一括りにカウントしてしまって)、更に、戦争犠牲者と虐殺犠牲者の数は広がる。

 いや、考えてくれ、冷戦時の、いちお、表面上は世界が平和とされていた時代に、中国なんか、特に、6500万人の人民が殺されているのだぜ。

 虐殺は、毛沢東時代に限らず、現在も行われている。

 貧困・弾圧に苦しむ僻地の村が、やむにやまれず一揆を起こし、中国人民軍に、毎日のように、数千人単位で虐殺され続けている。

 最近では、まだ死んでない人民から、内臓を切除して、内臓機能の劣った富裕層に移植したりもしていて、被害者は窮状を訴えている。

 毛沢東の超暴言に「(中国は)人口が多いので2~3000万人ぐらい死んでもかまわない」があるし、同様の趣旨を、現在、人民解放軍の高官が語っている。

 ・・先ほど、

   虐殺国家=中国

   テロ国家=イスラム諸国

   戦争国家=アメリカ

 と、書いたが、テロについて、少し書く。

 私は、テロについては、完全悪とは思っていない。

 イスラム過激派の無茶苦茶なテロリズムに対しては認めることはできないが、

 虐げられてきた弱者が、圧政に一矢報いるためのテロ行為には、共感を感じる時もある。

 特に、中国は、隣国への侵略を、今現在も続けている。

 ウイグルやチベット、モンゴルやブータン、ラオスにベトナム、ミャンマーにカンボジア、インド、海ではフィリピンに台湾、日本も当然ながら例外ではない。

 領土にエネルギー、政権への介入と、手を変え品を変え、全く手をゆるめる気配がない。

 それには、時間も手間も惜しまない。

 沖縄なんて、このままでは30年後には中国領土となり、沖縄県民は地獄を見るだろう。

 あの、翁長と言う知事の責任となる。

 あの人は、少なくとも、中国とアメリカを比べた時の視野のバランスが崩れている。

 先ほど語った「物ごと定める時の判断基準、加点減点の加え方」が正常じゃない人物だ。

 昨今、ウイグルでのテロ行為が、日本では取りざたされることが多い。

 日本では、マスコミのイメージ操作によりテロ行為が絶対悪とされているが、何を仰るか、ウイグルの方々がどんな虐殺を受け続けているかわかっているのか?

 ・・・・戦争は悪ではない、テロも悪ではない、唯一、「虐殺」だけが、世の中で「絶対悪」と言えるものなのだ。

▼私は、アンコールワットが好きで、これまでカンボジアには計10回訪れている。

 自然が素晴らしく、子供たちも可愛い。

 が、この国では、かつて、カンボジア共産党政権による大虐殺が行われている。

 もう、虐殺現場に行き、ちょいと地面をほじくると、人骨がすぐに見つかる。

 頭蓋骨は目立つので、すぐに掘り出せて、慰霊施設に積み上げられている。

 虐殺された数は、150万人とも言われている。

 カンボジア、キリング・フィールドには、反抗・反攻(戦争)さえできず、為すがままに殺された人間の亡骸が積み上げられていたのだ。

 だが、私は、わりと冷静な人間なので、目の前の光景に流されず、頭の中で考える。

 いちお、自分の中の思考フィルターに、目の前の状況を透すことは大事である。

▼自分の中の「思考フィルター」とは、現実に即した想像力である。

 日本軍は、あたかも、戦時中に女狩りをして、それを性奴隷(いわゆる従軍慰安婦)として扱ったとの嘘が世界に流れている。

 「泣き女」と言う職業のある劇場型激情性格の国民である朝鮮人は、おいおい泣いて「私は一日に200人の客を相手にさせられた!」と嘆く。

 嘘である。

 200人の相手なんか物理的にできないし、「客」と呼んでいる時点で金銭授受があると言うことじゃん。

 日本軍が、戦地風俗に関与したと言う証拠なく、ただ、慰安婦が、当時にしては多大な給金を得ていた証拠はある。

 朝日新聞は、昨年、それらのウソの流布を誤報と認めた。

 いや、そもそもの情報が嘘だと言うことは前々から分かっていた。

 それは、あたかも、ネス湖のネッシーの存在を証明していた写真が、本人によってねつ造と言われたことで根底から瓦解したのと同じ状況なのに、それでも、従軍慰安婦はを訴え続けていた朝日新聞の罪深さったらない。

 南京大虐殺と言う、中国政府が30万人殺されたと喧伝する事象がある。

 嘘である。

 まったく証拠がない。

 当時の南京には、日本軍の統治により治安が守られたこともあり、笑顔で町に集う人民がおり、人口も飛躍的に伸びていた。

 30万人の遺骨などはどこにもないし、日本軍に、そんなにもの遺体を埋める労働力がない。

 短時間で30万人を殺し埋葬するのって、そりゃ無理なんだよ^^

 原爆でも使わなくちゃね。

 アメリカは、東京裁判において、日本に原爆を使った罪悪感が大きく、日本を糾弾するためには、同等の大虐殺をでっち上げなくてはならなかったのだ。

 戦地の軍人が「100人斬り競争」をしたと言うデマもある。

 まあ、これは、そもそもが戦意高揚で日本の新聞が記事にした嘘なのである。

 そもそも、日本刀は、数人斬れば、その血糊で、対象を斬ることが不可能になる。

 ・・・何かを語るときは、その現実性を「想像」してから語るようにしたほうがいいぞ、皆の衆^^

▼私は、ずーっとノモンハン事件(1939)について研究したく、その資料を集め続けている。

 最初は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に偉く感動し、その司馬が「愚かな戦争の始まり」と断じたノモンハン事件を知りたくなったことに始まる。

 半藤一利も、司馬と同じ意見で、日本軍をこき下ろす『ノモンハンの夏』を書いた。

 しかし、私が調べれば調べるほど、ノモンハン事件は、日本軍がソビエト軍と渡り合っていた。

 司馬や半藤のおかしさも分かってきた。

 司馬が『坂の上の雲』で描写した203高地攻略の乃木大将無能論も、最新の学説では覆っている。

 司馬や半藤の時代にはなかった、ゴルバチョフの行ったペレストロイカ(改革)に伴うグラスノスチ(情報公開)で、ノモンハン事件での、日本優位の新情報が多数見つかったのだ。

 半藤は、それらの情報を目の前にしても、自説を変えなかったけどね^^;

   人間ってのは、自分の長年の主張を、間違っていたとしても、変えることはできない生き物なのである・・・。

 そもそもの発端である国境紛争においては残念な結果になったが、もう一つの重要な「戦争を起こした意義」については完全な勝利をしていた(後述)。

 ソビエトは日本軍を恐れ、名将と言われたソ連のジューコフ将軍は、のちにドイツ軍とも戦うことになるのだが、「これまでの戦争で一番の強敵はノモンハンでの日本軍」と言葉を残している。

 日露戦争を美化する人は多いが、あれ、日本がロシアの東の一部の地域で、かろうじて勝っただけだからね。

 日本は戦力の貯金無しのカツカツの勝利、ロシアには、まだまだ、もう二戦くらいかませる余力があった。

 そして、日露戦争の講和会議・ポーツマス条約では、全権の小村寿太郎は、その条約の締結内容(けして広くない土地の割譲、各種条件少なし、賠償金なし)に、日本国民の大ブーイングを受ける。

 曰く、何で大勝したのに、そんなに得るものが少ないんだよ! と言う、日本軍の内情を知らない国民の無責任な糾弾。

 今だったら、説明責任を果たせと言われ、小村寿太郎が国会に呼ばれ、日本軍の内情が細かくネットで知らしめられ、多少の理解は認められようが、すぐに、ロシアが攻めてきて第二次日露戦争がはじまったことだろう。

 私は、今の政治家は可哀そうだと思う。

 もう、一挙手一投足が、日本全国の津々浦々の全国民の知らしめられてしまう。

 安倍首相、なんか色々な内情を話せずに、それでも議論しなくちゃならないので可哀そうだと思うよ。

▼さて、やっと、終幕に近づいた。

 私が、カンボジアで思ったのが、「なんで、共産主義と言うものは、大虐殺に至るのか」と言うことだ。

 それは、自分の正しさが絶対と考える頑なな思考が、他者の正しさに思いやりを持たないことに始まる。

 「なんで、俺らの正しさをお前らはわからないんだ。ならば、死ね!」と言う思考だからだ。

 今の安保法案反対のデモは、明らかに異常で、多くの国民は、「戦争したいか?」と言われれば「いやだ」と答えるけれども、あんな妄想の如く、「戦争法案」「徴兵制復活!」と声高に叫んだりはしないだろう。

 戦争は「例外」で起こり、近代、特に日本においては、戦争が起こるには「相応の理由」がある、からだ。

 あそこに集う若者は、誰かに踊らされているのである。

 簡単に言うと、共産主義者に踊らされているのだ。

 なんで、共産主義者は、安保法案反対デモを画策するのか?

 簡単である。

 日本のアメリカとの同盟を良しとできないからだ。

 だから、戦争国家アメリカの十八番「戦争」を絶対悪として喧伝しているのだ。

 しかし、「戦争」は絶対悪ではない。

 戦争は、反「虐殺」システムとしては、正義なのである。

 「戦争」と「テロ」、それぞれを「虐殺」と天秤にかけたら、「虐殺」のほうが「悪度」が高いし、

   いや、そもそも、「虐殺」は「絶対悪」なのである。

 戦争は虐殺を内包しているが、・・・「虐殺」、それ自体よりは、加点・減点法において、正しいのである。

 8/6のニュースで、アメリカ人への「原爆投下についてのアンケート」が行われた結果が報告されていた。

 50数%以上のアメリカ人が「戦争を終わらせるためにしょうがなかった」と答えたそうだ。

 論理がおかしい。

 つまり、アメリカ人の多くが、「戦争を終わらせるために虐殺を行うこと」を正しいと判断したわけだ。

 破たんした論理である。

 それでも、だ。

 日本の最終的な敵は、「強大な虐殺国家・中国共産党」なのである。

 もし、この戦後七十年のように、アメリカにおんぶにだっこし守ってもらい続けていたら、遅かれ早かれ日本は崩壊する。

 アメリカは、これから、「戦争国家」として、終わらない「テロ諸国家」との戦いが続く。

 極東の問題など二の次 三の次となる。

 日本単体、もしくは、『被「虐殺」予備国』である、ウイグルやチベット、モンゴルやブータン、ラオスにベトナム、ミャンマーにカンボジア、インドにフィリピン、タイ、台湾、マレーシア、インドネシアと連合を組んで、長期的に大国を封じ込めなくちゃならない。

 そのためには、どんなに反対があろうが、デモが喧しかろうが、法律上問題があろうが、「今、そこにある危機」に対し、喫緊の大問題として、まず、安保法制を、国会で通さなくてはならない。

 先ほど書かなかった「ノモンハン事件の最大の意義」とは、第二次大戦の終戦のときまで、ソビエト共産党を、ソビエトの国土に封じ込めることが出来たことにある。

 現在においては、中国共産党=「虐殺そのもの」を、けして、国外に輸出させてはならない。

 安保法案反対を叫ぶ者は、「虐殺」肯定派である。

 日本の、いや、世界の、最終的な敵は虐殺国家「中国」である。

                  (2015/08/14)
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[『こち亀』の両さんの戦車講義] [戦争コラム]

▼私は、大の「少年ジャンプ」好きだが、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』」はあまり好きではない。
だが、主人公である多趣味人間の両さんが、たまにマニア知識を開陳する時は楽しんで読む。

▼明日発売号の「ジャンプ」の『こち亀』で、両さんは、世界に誇る日本の文化、マンガ・アニメ・ゲーム・フィギュアを大学の授業にしている超芸術大学の講師として招かれる。

校長には、「一学期はミリタリーモデル、テーマは戦車について語って欲しい」と言われる。
そして、タイガー戦車のプラモデルを差し出される。
「タイガーは、100輌くらい作ったかなあ・・・」
「戦車の歴史を教えなくてもならないので、教科書も用意を・・・」
「ああ、いらない。例えば、戦車を初めて作ったのはイギリスでMk1タンクとか、史上初の回転砲塔を装備したのはフランスのルノー軽戦車とか・・・、そんなかんじでいいんだろ?」

かくして、両さんは教室に赴く。
その後姿を見て、
「教科書も見ないでペラペラでるとは・・・」
と校長。
「さすが、学長が目をつけた人物だけはある」

▼さて、そこでの講義内容を書こう。

 生徒  『先生、質問!』
 両さん 『はい』
 生徒  『昔の戦車は丸いじゃないですか。現代のは四角ですよね。なぜですか?』
 両さん 『(黒板に絵を書きながら)昔は丸くて、今は角ばっている。
       更に昔の戦車はこう、鉄板にビス打ちで作っていたわけだね。
       子供の絵でも、このリベットを描くねー』
 生徒  『はい』
 両さん 『このリベットが弱点なんだ!』
      と、両さんは、黒板を叩く。
 両さん 『戦車が被弾した時、リベットが外れ、車内をリベットが(弾丸のように)飛び回る。
       危険なのだ!』
 生徒  『ひえっ、こわい!』
 両さん 『だから、リベットのない鋳造にしたのだ。鉄を型に流し込んで作る方法だ(シームレス)。
       更に、この丸さが弾丸を弾いてくれる。
       だから、丸い戦車が多かった。
       しかし、組み立てのボルトさえも、被弾で飛び散ることに後で気づいた。
       そこで、設計者が悩んだ結果、面と面を溶接で結合することにした。
       これなら、ボルトの必要がない。
       その為、近代戦車は、直線が多いのだ。
       
        

       戦車といえば、主砲だ。二次大戦中は、30口径が多かった。
       だが、その時代に、
       飛行機さえも撃ち落とす56口径88㍉高射砲を主砲につけたとんでもない戦車があった。
       それが、ティガー!
       世界一有名な戦車だ!

        

       長く重い主砲をつけたからバランスが悪い。
       それだけでなく、
       車体前面に10㌢という厚い装甲版までつけて、重装甲戦車にしてしまった。
       重いデブ戦車だから走るのが遅い。
       道はへこますわ、機動作戦には遅れるわ・・・。
       で、ティガーは、火力と装甲は強力だが、
       機動性がものすごく低いアンバランスな戦車なのだ。』

 生徒  『なぜ、そんな戦車が有名に?』
 両さん 『そこだよ、君ぃ!!
       高射砲の転用だから、圧倒的な遠距離攻撃と破壊力!
       数では不利な局面を何度も圧勝する強さとタフさがいつしか伝説となった。
       まさに「虎(タイガー)」だ。
       無骨なスタイルも相俟って、戦車史に名を遺したわけだね』
 生徒  『なるほど』
 両さん 『正しい発音はティガー。
       プラモデラーは「タイガー」と言わずに、「ティガー」と言うように!』
 生徒  『は~い』

 「ジリリリリ・・・!!!」
 その時、チャイムの音が・・・。

 両さん 『おっと時間だ。今日のレクチャーは、これにて終了!!』
 生徒  『ありがとうございました!』

▼・・・私も勉強になりました。

私が、『こち亀』を、あまり好きではない理由は、連載の始まった当初(30年以上前)、下町の描き方が、どうも、こなれてない気がしたからだ。
虎・・・じゃなかった^^; 寅さん映画のような下町を指向していたのは分かるのだが、私は子供ながらに、それが板についてないような気がしたのだ。
だが、『こち亀』も、30年以上続くと、「下町の代名詞」となっているので、それもまた年月の重みなのだろう・・・。
                                       (2007/11/11)


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